『ゲーミフィケーションで「動物たち」の「神」をよみがえらせる』
これだけ書くと気がふれたか酔っ払っているように見えますが、一応ビジネスの提案の根幹の部分です。
また信心深い人からは怒られそうなのでできるだけ分かりやすく書きます。
現代はいかなる時代か?
現代は「動物」の時代である。
- 理想の時代
- 夢の時代
- 虚構の時代
- 動物の時代、または不可能性の時代
社会学者の見田宗介によると「現実」という語は3つの反語を持ちます。
「理想」、「夢」、「虚構」。
見田はこの「現実」の3つの反語に基づき戦後の日本社会を3つの時代に区分しました。
1945年から1960年は理想の時代。
1960年から1975年は夢の時代。
1975年から1990年は虚構の時代。
見田の弟子である、社会学者の大澤真幸は1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件を「虚構の時代の果て」と表現し、虚構の時代の後を「不可能性の時代」と呼びました。
また、見田と大澤の論を受けて評論家の東浩紀は虚構の時代の後を「動物の時代」と呼びました。
動物の時代とはどんな時代でしょうか。
虚構の時代に象徴的なキャラクターとしてオタクを挙げることができます。虚構の時代のオタクの行動原理は「物語消費」であり、作品として可視化している背後に見えない「大きな物語」を想定します。これを指摘したのは評論家の大塚英志です。
動物の時代のオタクの行動原理は「データベース消費」であり、背後に見えない「大きな物語」を想定しません。東の言う動物の時代は、萌え要素に強い刺激を求めてハマる動物としての人間の側面を捉えています。
他の言葉で現代を表すなら「脱魔術化」(ウェーバー)、「再帰的近代」(ギデンズ)、「リスク社会」(ベック)、「大きな物語の終焉」(リオタール)、「神は死んだ」(ニーチェ)とも言い換えることが出来ます。
では死んだ神をいかに蘇らせるか?
少し回り道をしましょう。
宗教の機能的本質は何でしょうか。
大澤と同年代の社会学者、宮台真司によると「宗教の機能的本質は前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れる装置」です。平たく言うと突然振りかかる不幸によるショックや、なかなか受け入れることが出来ないことを受け入れることが出来るようにする枠組みです。宮台によると、経典の有無などは関係がありません。
だとすると、表面上は何であれ前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れる装置を作ればそれは宗教と機能的等価性を持つということが出来ます。
この装置に名を与えるとしたら、それは神をよみがえらせたに等しいと言えると僕は考えます。
さて、そんな装置をどうやって造るのか。なぜゲーミフィケーションがいいのか。
それは後日、書きたいと思います。
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